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1970's Miriam Haskell Baroque-pearl earring
1970年代 ミリアム・ハスケル ティアドロップ形バロックパールと真鍮のピアス 
0円(税込0円)
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1970年代 ミリアム・ハスケル ティアドロップ形バロックパールと真鍮のピアス 
0円(税込0円)
1970's Miriam Haskell Baroque-pearl triple earring

1970年頃、ミリアム・ハスケルのバロックパールのイヤリング。 大粒のティアドロップにフラワーのデザインがシンプル&エレガントで上品さを感じさせます。ピアス式です。

バロックパールとは、真珠が形成される初期段階で、核の周りに異物が付着し、そのまま形成されることで変形が生じる真珠のこと。 建築史や音楽史用語にも登場する「バロック=baroque」も、もともと変形真珠を表すポルトガル語 barroco に由来したものなんだそうです。 自然の中での偶然の結果なので、この世に二つと同じ形は存在せず、画一的な真珠とは違う趣があります。
ミリアム・ハスケル製の場合、本真珠ではなく、クリスタルガラスにパールエッセンスを何度も塗り重ねた人造バロックパールを主に使用し作成していました。
『ミリアム・ハスケルといえばバロックパール』といえるほど、代表的なシリーズです。


カテゴリー: ミリアム・ハスケル ピアス
制作期: 1970年頃
製法: バロックパール、真鍮、ピアス
サイズ: 全長5.3cm
コンディション: パール部分にかすれは殆ど見られません。欠け割れありません。良品です。




Miriam Haskell(ミリアム・ハスケル  生没 1899〜1981年 アメリカ合衆国)

ミリアム・ハスケル(1899〜1981年)は、ビジネス社会において存在する権利を有するという女性の正当性における先駆者で女性個人の独立の特権を信じて行動しました。
5フィート7インチのほっそりとした身体と黒い髪、黒い瞳、白い肌という肉体的な美しさも持った彼女は、言葉づかいも美しく、優雅で洗練された女性でした。
ニューヨークシティ 57番街に小さなショップを持った彼女は、たちまちのうちに成功し5番街へと進出しました。 この頃出会った若手天才フランク・ヘスは彼女のアイディアやスケッチを完全な形態として世に送り出しました。
もっぱらミリアムの為にだけデザインをしたこの魅力的な男性デザイナーはミリアムとの生涯の作業を続けたのでした。 モード雑誌『VOGUE(ボーグ)』の表紙のトップモデル達は競ってハスケルの作品で身を飾りました。
不滅の女王グレタ・ガルボを始め、多くのトップスターもハスケルの愛好者でした。 ミリアムの個性として特に興味深い点は、個人的評判をあまり好まなかったことにあります。
おそらくこの評判自体が自分に拘束をもたらすものである故でしょう。 それゆえ、1924年からジュエリービジネスをはじめたミリアムは自分のデザインのどれにも初めサインを入れなかったのです。
1930年代後期以降になってから彼女の作品にはオーバルの中にミリアム・ハスケルとレリーフされた商標がつけられる様になりました。 1940年代のわずかな期間ニューイングランドのショップの要請によりハスケルオリジナルとして馬蹄型の金属にミリアム・ハスケルと刻印されたサインものが作られましたが、現在では本当に稀にしか見られません。
1930年代〜40年代の不況の時期から第2次大戦を通してさえその間20年というものをミリアム・ハスケルは「ファッション界のファーストレディ」としての名声を広めていったのです。
1950年代に病気の為、彼女はビジネスとサインの権利を弟のジョセフ・ハスケルに譲りリタイアしました。 ロシアとプロイセンの両親の血を引く天性の美貌と類い稀な芸術的才能や上品な物腰・・・。
彼女は恋多き女性としても有名で、バーナード・ギンブル(かの有名なデパート王)やネルソン・ロックフェラー、ジョン・D・ハーツ(レンタカー一族)といった有名な紳士達がその名を連ねています。
ハスケルの作品は皆昔ながらのやり方で手仕上げによって製作されています。 それぞれ細かいところに気を配り、手作業のみで組上げられ各ビーズはサイズにおいて同寸法になる様注意深く配置され、また、19世紀のグラニュレーション技術に勝るとも劣らない優しい色使いの金箔を施してあります。
シードパールビーズをワイヤーで丹念に密集させて作りあげたものなどハスケルならではの作品といえます。 彼女は1981年7月4日82歳で世を去りましたが、その素晴らしい作品の中に生き続け、身に着ける女性に自身と満足を与え続けるに違いありません。